道風境界

日本画家による日々の雑感。

周大千の日記 (八) 上海にて 1901年 8月16日

 (利瑪竇の続けて曰く)

 耶蘇、三千大千世界を超えたる不可知なる耶和華の応身なれど、沙塵の一粒と化して我らに寄り添えり。耶蘇、上帝の御子なれど、その身を差し出すほどに人を愛せり。時に万象は紂王の戎車の砂塵の如く、我らはその一粒の如くに儚く見ゆれども、されど我らは宇宙の無情なる矩を超えたるものに支えられたり。存在の内奥には、全き存在の肯定あり。そは天の愛なり。人、小さき星の欠片落ちたるだけで全て滅びる小さきものなれど、我ら故なくして宇宙に在るにあらず。

 存在の内奥より囁ける声あり、我ら故なくして宇宙に在るにあらず、我ら塵なれど塵にあらず、と。
 
 孟子曰く『人は小さき天なり』。
 
 耶蘇曰く『人は天の子なり』。
 
 されば我ら、塵の塵なれど胸張りて生きん。

 天聖子、この世の一切をその腕にかき抱き、昇りて天に繋げたり。その一つとして恨むことなく、闇に捨てたるものなし。時に闇に何かを捨てたるは、神にあらず人なり。されば我ら、諦念の中にただ座することなく、世を疎んじることなく、人として生き、歓び、悲しみ、笑い、時に憎しみ、怒り、争い、されど愛し、そして天使ならず人として死なん。われら天使と成る前の途上のものにあらず。我ら人として造られ人として生まれ、人として生き人としてのそのままに天にあげらるるものなり。されば我ら、真に人間らしい人間となりなん。


中国 茨中天主教堂 




 天は悪人にも善人にも等しく雨を降らすと耶蘇の言い給うを我らは聞く。言葉のみならず、衆生を愛しきるその人生を我らは知る。天、その源においてすべての衆生を分け隔てなく愛したまう。されば君の敵もまた神の愛し給うものなり。
 もし人、すべての人に注がれ、天地を貫きてある上天の愛に気づくことなかりせば、必ずや人の想い、自らの想いにただ迷い惑わされ、波間に漂う藻の如くに海中に沈みゆかん。あんじんそこになく、荒立つ波のままに、不安も憎しみも争いも人の心の内にてやむことなし。

 万象の内奥の愛を信ぜず、我のみ浮かばんとて人をいたずらに叩きたるは、これ逆に海に沈まんとて足にて天を叩くに似たり。我らの内奥の愛を自ら否定せなば、よって立つは闘争の大海のみ。その時、人、天魔の手を叩きて囃し歌うを聞く、
 『駈けよ駈けよ、波蹴りて。駈けよ駈けよ、夜昼も。見よ足先の波に飲まれん、見よ膝までも今沈めり。駈けよ駈けよ、今まさに、大海、汝を飲みこまん。』

 阿爸父、天の愛・地の愛を一つとなして命の柱となし、大空大海をつら抜きて天地万象を繋ぎたり。この一柱、命の梁を広げて一切の衆生を繋ぎ支えり。

 耶蘇、大海に漂いたる白鳳を抱きて上天し、白鳳まさに命を得、それ存在の見えざる深淵より、それまさに上天より福音を叫びて飛び出でたり。その眼差し爛々として、打ち下ろす翼は己の向う場所を知る。それ天に舞い、大海に舞い、地中を舞い、人の心に留まりて、
 『然り。然り。天地万物まことに此処にあり。』
と啼きつつ羽ばたけり。」

 利瑪竇、語り終えて杯を置き、物思いて月を見しが、我思わず立ち上がり、彼に十字をきりていう、
 「老師あまりに言葉多ければ、老師の言葉、一言たりとも信ずるところなし。」
利瑪竇笑いて立ち上がり、宴の礼していう、
 「君如何に思うや、われ天地より来たりしものなりや、ただ君の夢の中より来たりし幻にあらざらんや。これ、夏のひと夜の夢なり。」  
 彼、軒に手を伸ばして月を取れり。

 我、慌てて「念珠いかにせん」と問いかけたれど、すでに姿なく、ただ風に
 「‥誰かこれを見い出さん‥」
と、幽かに声の残るを聞けり。









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  1. 2007/05/02(水) 11:20:53|
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